小林先生のお葬式
今日は写真の師匠でもあり
うちの子供たちの家庭教師でもあった小林先生のお葬式でした。

2月上旬から体調を崩して入院していたのですが
16日(日)の明け方に急に容態が悪化しました。
ケンタと一緒に病院のICUに駆けつけたときには意識も戻り、
血圧も安定してきたので安心していましたが
翌日の明け方に静かに息を引き取りました。
死ぬ間際まで
「ケンタ 進級できてよかったな」
を繰り返して旅立ちました。
突然の急変だったのでみんなおお慌て
自宅にご遺体を運んでから家を片付けたり、お通夜などのお手伝いをしていました。

遺影は息子さんが撮影したというタバコを手にしたお写真と
鮎つりが趣味だったので鮎つりの写真で
お寺のご住職もはじめての遺影だと話していました。
小林先生とは天童に戻ってきてまもなくからのお付き合い
高専に通うケンタがまだ生まれてたばかりの頃にひょっこり現れて
写真の話をしていたのですが
「あんた 俺の話がわかるんだな・・・」と一言
小林先生は蘭の花を撮ったら右に出る人がいないという日本の第一人者

小林先生の写真の話はかなり物理的で
相反側不軌で赤く色かぶりしたりとか
蘭の花をアップに撮ったときに
露出倍数が変化する数式の話などが多く
ちょっとやそっとのカメラ屋さんや写真館のお父さんとは
写真の話をすることはまずないので
大風呂敷を広げているように思われていることもあったようです。
自分も興味があってサラリーマン時代に
メーカーの技術者の方などから教えてもらっていたので
たまたま先生の話についていけたのですが
そんなこんなで20年ほどのお付き合いでした。
先生に指導をいただいて
【四季 やまがた】のカレンダーに写真を採用してもらったり
スタジオの写真屋さんばかりではなくプロ写真家としても
ようやく仕事ができるようになり始めていたところでした。

この分野の仕事ではデジタルではなくて
昔の写真屋さんが布をかぶって撮っていたような
大判カメラにポジフィルムを入れて撮っています。
時にはこんな感じで舞妓は~んとおいしいお酒も飲んでいたのです

昭和13年に東京の神楽坂で生まれ育ち
東京大空襲で山形に疎開してきて魚捕まえなどしていて
その後一家は東北大学を卒業して某社のエンジニアになったお兄さんを頼りに仙台へ
仙台二高ではバレーボール部のエースアタッカーだったのだそうです。
疎開していた時の魚釣りが忘れられずに山形へ移住して
大好きな場所で永眠できたのかもしれません。
喪主は奥さんでしたが、
奥さんはうちの姉が教頭をしている高校で
演奏家レベルのピアニストを育てるような先生で
姉の高校の副校長ご家族もみんな知り合いみたいな
本当にわが家といろんなつながりの深いご夫妻でした。
奥さん一人になってしまうので
今後は仙台の娘さんのところへ引っ越すことになるそうです。
ちょっとしんみりした一週間でした。
長年教えていただいたプロ写真家の技術を活かして
これからも意思を引き継ぎ精進してまいりたく思います。
うちの子供たちの家庭教師でもあった小林先生のお葬式でした。

2月上旬から体調を崩して入院していたのですが
16日(日)の明け方に急に容態が悪化しました。
ケンタと一緒に病院のICUに駆けつけたときには意識も戻り、
血圧も安定してきたので安心していましたが
翌日の明け方に静かに息を引き取りました。
死ぬ間際まで
「ケンタ 進級できてよかったな」
を繰り返して旅立ちました。
突然の急変だったのでみんなおお慌て
自宅にご遺体を運んでから家を片付けたり、お通夜などのお手伝いをしていました。

遺影は息子さんが撮影したというタバコを手にしたお写真と
鮎つりが趣味だったので鮎つりの写真で
お寺のご住職もはじめての遺影だと話していました。
小林先生とは天童に戻ってきてまもなくからのお付き合い
高専に通うケンタがまだ生まれてたばかりの頃にひょっこり現れて
写真の話をしていたのですが
「あんた 俺の話がわかるんだな・・・」と一言
小林先生は蘭の花を撮ったら右に出る人がいないという日本の第一人者

小林先生の写真の話はかなり物理的で
相反側不軌で赤く色かぶりしたりとか
蘭の花をアップに撮ったときに
露出倍数が変化する数式の話などが多く
ちょっとやそっとのカメラ屋さんや写真館のお父さんとは
写真の話をすることはまずないので
大風呂敷を広げているように思われていることもあったようです。
自分も興味があってサラリーマン時代に
メーカーの技術者の方などから教えてもらっていたので
たまたま先生の話についていけたのですが
そんなこんなで20年ほどのお付き合いでした。
先生に指導をいただいて
【四季 やまがた】のカレンダーに写真を採用してもらったり
スタジオの写真屋さんばかりではなくプロ写真家としても
ようやく仕事ができるようになり始めていたところでした。

この分野の仕事ではデジタルではなくて
昔の写真屋さんが布をかぶって撮っていたような
大判カメラにポジフィルムを入れて撮っています。
時にはこんな感じで舞妓は~んとおいしいお酒も飲んでいたのです

昭和13年に東京の神楽坂で生まれ育ち
東京大空襲で山形に疎開してきて魚捕まえなどしていて
その後一家は東北大学を卒業して某社のエンジニアになったお兄さんを頼りに仙台へ
仙台二高ではバレーボール部のエースアタッカーだったのだそうです。
疎開していた時の魚釣りが忘れられずに山形へ移住して
大好きな場所で永眠できたのかもしれません。
喪主は奥さんでしたが、
奥さんはうちの姉が教頭をしている高校で
演奏家レベルのピアニストを育てるような先生で
姉の高校の副校長ご家族もみんな知り合いみたいな
本当にわが家といろんなつながりの深いご夫妻でした。
奥さん一人になってしまうので
今後は仙台の娘さんのところへ引っ越すことになるそうです。
ちょっとしんみりした一週間でした。
長年教えていただいたプロ写真家の技術を活かして
これからも意思を引き継ぎ精進してまいりたく思います。
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